昭和50年04月15日 朝の御理解



 御理解 第16節
 「無情の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無情の風が時を嫌うぞ。」

 昨日大戸の江頭さんと頃の親子、御礼に出て見えました。お届けを聞かせて頂いたんですけれども。仏教でお葬式をなさいましたから、三日か何かが終ったから、御礼参りでございましたんです。本当にお話を聞かせて頂きますと、何からかにまでこれは突然の死でございましたから、それこそ目の前が真っ暗うるように、それこそお母さん一人を嫁さんが、御祖母ちゃんに頼り切ってあった。
 そのように嫁姑の仲も大変睦まじいお家でした。本当にお母さんあんたが亡くなって、すがり頼っておった者が亡くなって、これからは何に縋って行ったらよかのと泣かれたと云う話を聞きまして、本当に有難いなぁと思うた。親子でもそういう姑と嫁との交流というか、日頃仲良うしておられた事が、色んな事から伺われるのですけども。後先の事から思わせて頂きますと、神乍らなお国替えであったと言うこと。
 一日遅くても早くても、または時間的にもです。その翌日が告別式でした。告別式が終ってしまって、皆さんも帰ってしまって頂いてからお湿りがあった。それは天候の上だけのことだけではないですけれども、そういう様な事もです、私は神様がそのへんの所を自由自在。例えば前の日に亡くなるんでは、お湿りに逢わなければならない。一日遅れても早くてもいけないと云った様な感じです。
 それから昨日一昨日は、森部の高山さんの所があそこは家族中、孫子迄ですから二十人位みんなでお礼参拝して参りまして、娘達息子達が一人一人本当にお礼のお届けでした。言葉が、言いようがないですけれども。本当に有難うしてから悲しい顔というか、笑いが止まらんという感じなんです。主人が亡くなって笑いが止まらんちゃ、早よう死んで良かったという意味ではなくてです。もうあまりにも神様の神乍の働きを、目の当たりに見聞きして、信心を頂いとる事の有難さが、有難いというのです。
 時々発作的に具合が悪くなられるんですよ。心臓が大変悪くなってそしてお酒を、ずうっと一週間も十日も飲み続けられるんです。それでと云う様な病気でしたが、今度宅祭りがございますが、宅祭りまでしばらく主人を娘の所へ預けたいと思うと言うお届けもあった。今まではそうなさりよったんです。所が今度は神様が強硬に「預けるな」と言う事であった。だからそれまでにおかげ頂くとじゃろうかと云うてから、云うたり思うたりしよったらこの事であった。お国替えであった。
 そして告別式を前日は大変雨風で、お湿りでしたがその翌日告別式の時には、ここからも沢山会葬されたそうですけれども。大変なお天気にも恵まれて万事万端、昨日もまた親子で出て見えて、その後の事のあかげお繰り合せというのが、主人が亡くなっておかげでこう言う様な働きやらおかげになって来たという、昨日お礼参りがありました。という様な江頭さんにしろ、高山さんにしろお国替えのおかげを頂かれたのですけれども。神様が今日亡くならなければならないものでも。
 少し時間を延ばして下さるという働きがあることは大体分かりますですね。勿論ここの所では、無い命でも助かる事が出来るのが。金光大神の道だと言う事を、説いてお有りになるのですけれども。例えば亡くなったと致しましても、無常の風に誘われて行くと言う事に致しましても、金光様の信心をさして頂いておると、無常の風ではない。それこそ神情一杯の中に、お国替えが出来ると言う事を、私は江頭さんと高山さんの話で、聞いて頂いたんですけれども。
 私はここに一つ教えが無常の風を向こうに追い払う働きがあると言う事を、聞いて頂こうと思うんです。昨日でした。私はいつも二時からが大体、私のここの時間ですからいつも一時のご祈念の位に、私は出て来るんです。昨日は何かしきりに此処に出てきたいという感じでしたから、十二時過ぎてすぐここに出て来ました。そしたらあちらの御結界で、久富先生と上野先生と、一生懸命お話をしておられる所でした。
 あるご信者に対して。上野先生がお話をしておる所へ、久富先生に代わられたもんですから、受け継いで懇々と説かれる。久富先生も一生懸命説かれる。兎に角あんたがそういう状態ではいけないから、親先生が二時になれば見えるから、それまではあんたは帰っちゃでけんと言うて、上野先生が無理に引っ張るようにして、お話をして下さっておるところへ此処へきた。ほうら見なさい親先生が見えた。さあこれで助かられるばい。これでおかげ頂かれるばいと云うて、此処へ見えたんです。
 話しを聞きますと本当に悲しゅうなりました。本当に信心を頂いとかなければ駄目だと言う事、おかげだけじゃ駄目だと言う事です。それが最近選挙で御座いましたから、選挙の事で大変な問題が起きて、村の方達が立候補されるのに対して、その一軒だけが食わん腹探られるとでも申しますかね。あそこは今度全部自分たちに反対しとると言った様な風に見られて、三四日前村内で会合があった時に、皆からそれを云われて居所がない、場がない様な恥ずかし目を受けた。
 それもお家で兄弟親子で、三人話しておられる関係の人が、話を立ち聞いて聞き違いをしてる訳です。そしてその時親子で話しとった事を、そのまま間違えて村の人達に話した訳です。それでそれからと云うものは、第一ご飯がいけんようになり、晩が眠られん様になり、とうとう夕べは死を覚悟した。遺書だけでもこんなに沢山書いたち言う。いうならば、村の人達にある意味では面当てと言う事でしょう。
 又は自分はそんな気持ちじゃなかったと云う事を証しを立てる為に、一晩寝らずに遺書を書いて疲れきって、疲れ果てた心の中にです。一ケ月か前に合楽に毎朝参って来た事を思い出させて頂いて、非常に親孝行な方です。お父さんが病院で助からんと言われたのを聞いて、此処の事を聞かれて朝三時頃から参って来るのです。そして一生懸命お縋がりをさせて頂いて、それが助かった。医者もたまがるほど本人も、死を覚悟をしとる程しの病人がおかげで助かったと云う様なおかげを頂いて、お参りした事がある。
 最近参って来んが、どうした事やろうかと思いよったです。そしたら昨日参って来て、そういう事であった。兎に角話をここから聞いて頂かにゃ分からんと云うて、私が話をする時に、先生あなたはそう云いなさるけれども、此処には死ななきゃおられない事になっとるちこう言う。私から聞くと可笑しいごたるごとですけれども、本人はそう思い込んで思い詰めてしまっておる。
 それで色々とお話をさせて頂いたんですけれども、急に信心が小さい信心から大きな信心になることもできませんからね。私が大きな見地で話しとるから解らんのです。久富先生からも懇々と聞いた。上野先生からも話しを聞いた。私からも聞くけれどもそれでも先生、私が死ぬと云う事が無理じゃないと言う事を云う訳です。そして私が知っておる限りの御霊様の世界の事を話さして貰うて、自殺をした自分で自分の命を絶った様な御霊が助かり難いという話しを、色々させて頂いて。
 そういう世界があるだろうかと云うて、質問して来ました。だから私が知っておる程度の事実をお話しさせて頂いてです。話しが少し入って来るようになったんです。死んで自分の苦しみが、そこで無くなると思うておるけれども、死んだ先にも苦しみが永劫続くという話しを聞かせて頂いておる内にです、段々心が開けて来た様に感じでした。色々に話させて頂いておりましたら、その方が云うのです。これは昭和二十八年の大洪水の時から、実は始まっとりますと云うのです。
 あちらのその方のお母さんと兄弟が、材木拾いか何か何かどんどん流れる所に行きなさったか何かでしょう。そこは話に聞きませんでしたけれども、川に押し流されて材木に捕まって「助けてくれ、助けてくれ」と、そうにゃ云いなさったけども、誰れん助け手がなかったそうです。それを一番目撃してあったのが、その村内の立候補してあった人だそうです。だからいつもあん時に自分が助けなかったから、あの一家は自分方を恨んでおるという見方を、ずっとして来ておったという訳です。
 それが水門の愈々難しい所まで流れて行って、消防隊の方達が見つけて、二人とも無事に助かったという様な因縁話がある。だから二十八年の時からあの家と私の家は、そういう様な関係であって、目の前を流れよるとば見てです、それが危険を感ずるから誰でも、おいそれと出来ませんですよ。それを見過ごした人にも伝えなかったというので、家と家がそんな状態の事から、昨日話しております。それで段々話して行く内にです。今その方の嫁さんが、参宮をしとるそうです。
 伊勢参宮をしとります。それが実は先生明日嫁さんが帰って来る様になっとりますじゃん。それで明日その嫁さんの顔を見ようと死に遅れちゃならんとこう云うのです。それで、私が笑いだしました。そんならいっちょ明日嫁後さんの顔どんゆっくり見てから、そしてから死にゃいいじゃんのと、私が云い出しましたら、そしたら死に遅れるち云うのです。てんで死に急いどる訳ですよ。
 それで色々お話さして頂いて、私が小さい心から大きな心へならせて頂くと云う事を、色々な話をして、おかげ頂いとりましたら、段々笑い顔が出てきましてね。心が何か治まった様な気がして、今日は眠れるかも知れん、御飯が食べられるか知れんちゅうて帰りまして、まあその後の事は分かりませんけれどもです。いうならば無常の風を教えが向こうへ押し返して上げたと云う事です。
 私が思うのに私がもう一二十分遅れたら帰っとるですからね。久富先生が止めなさったっちゃ、上野先生が止めなさったっちゃ、こうしてから、只何カ月か前に合楽にそこから開ける道があると言った様なものがあったけれども、二人の先生の話を聞いてからでは心が開けなかった訳です。そして私に会ってと言う所がです。私がどうして十二時に此処へ出て来たかと云う事。金光大神の道なのですそれが。
 神様が何か私を急き立てる様に、お結界につかせて下さって、そしてそこに無常の風が吹いて来とるのを、向こうの方へ吹きやって下さったという感じがするじゃないですか。そりゃこうやって笑い話をしよるけれども、本気で彼の話を聞いておりますとです、本当に聞きながら貰い泣きするごたる事なんです。成程普通一般の人の考え方は、そうじゃろうと思いました。
 そしてそう言う様な事が死に追いやると言う様な例は、日々の新聞とかテレビラジオで報道される様な、たったそんくらいの事が死ぬる原因じゃったのと云う様な事で死んでいく人が、幾らもあると云う事です。そこで真の信心をさせて貰わなきゃならん。信心も、自分よがりの信心だけじゃいかん。本当の信心を身に付けとかなければ、愈々の時には役に立たんと云う事なんです。
 今朝私起き掛けに或る人が、明るいという字ですね。明月の明と云う字です。日を書いて月と書くでしょう。それを月を書いて日を書いておる所を頂くのですお夢に。それで私が、それじゃあんた明るくは成らんよと云うた所で目が覚めた。月を書いて日を書いてるんです。普通は日を書いて月を書かなければ、明るいと言う字にはならないでしょう。それを私が、それじゃあんた、明るく成らんよと云うた所で目が覚めて、どう言う事だったかなぁと思わせて頂いてから感じたんです。
 月と言う事は人間氏子の事です。日というのは神様の事です。大体月そのものには光りはないのです。太陽という日の光りに照り返りが、月が先日もお話したように、三ケ月なら三ケ月がた、半月なら半月がたの明るい。十五夜なら十五夜の明るい。それこそ昼をも欺く様な光が頂けれるんだと云う事なんです。ですから月と云うのは私共、神様は日なのです。それを反対にしたんでは、明るくはならないと言う事。と言う事はどう言う事かというと、自分を中心の小さい信心では、本当の徳は受けられない。
 明るさは生れないと云う事なんです。神様任せと云う事は神様を中心に申し上げると云う事なんです。自分は右が良いと思うけれども神様が左と仰せられるから左になる。それが神様を中心にした又段々信心を分からせて頂くと、自分の事よりも神様信心本位という事を申しますが神様を中心にした物の見方、考え方というのが大きな心なのです。だから昨日のその方なんか自分と云うものを、自分の一家と云う事だけを中心に考えておるから、そこにどうでもしなければならないと言う様な事になってくるのです。
 もしこれを神様を中心にして考えたならば、御神慮はどこにあるかと云う事を分からせて頂いたならば、神様がこの様にして私を大きくして下さる。神様はこの様にして力を与えて下さると、御礼を云わねば成らない様な事に、死のうか生きろうかと云う事迄になって来ておるのです。ですから如何、御神慮を体して、御神慮に添うと言う事が素晴らしい事か分かるでしょう。それには自分を中心の小さい信心からは生れません。月という字を先に書く様な信心からは、明るさは生れてこないと云うのです。
 自分の苦しい事だけで、目の前が真っ暗うなる。自分がこの様に苦しんでおるけれども、この苦しんでいる姿を親が見たならば、親神様が御覧になったならば、もっと嘆いておられるだろうと云う事なんです。だから苦しゅうございますけれども、神様にはよりもっと苦しみを与えておる事のお詫びより他にないです。私共がいつまでも難儀をしておると云う事がです、如何に神様のそれを難儀として、神様が悲しんでおられるかと云う事を思うたら、信心が分かりませず出来ませんので。
 神様にお御苦労をかけておると言う事を思うたら、愈々本当な事に出て行かなければおられない。本当な事が分かってそれを身に付けて行かなければおられないと云う信心が、そこから生れてくるのです。氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと。これは三代金光様の御教えです。いうならば自分本位から、神様本位の信心をさせて頂くと言う事です。皆よく云います。私がおかげを頂いたならどげな御用でん頂く。私がおかげを頂いたならばと云う。
 自分がまずおかげを頂いたら、神様の御心にも添わせて頂こうと云うのです。大祭なら大祭の御用なら御用がそうであります。自分の忙しい仕事を片付けといてから、そしてから御用に来ると言った様な事では、これは神様中心とは言えません。何もかにもそこにおいて、大祭を迎えるための御用なら御用を、それもこれも問題でもある大事な事でもあろうけれども、大祭の済むまでは一時ばっかり待っとってくれんのと言う様な信心です。神様を中心に申し上げた信心とは。
 神様を中心に申し上げる。自分の生き方と云うものがです、神様本位の行き方にならせて頂くと、神様の御心が本当に分かってくるのです。ですから普通で云うならここで死ななければ、道はないと言った様な場合であってもです。神様中心になって来ると、神様の心が分かる神様の心が分かれば、死ぬるとか苦しいとかの段じゃない。むしろ神様に御礼を申し上げねばならない様な心すら生れて来るのであります。
 今日は御理解16節から、江頭さんとか高山さんあたりの、亡くなると云うのですから、確かに無常の風は無常の風でしょうけれども、お道の信心をさせて頂いておると、無情の風とは云われない。それこそ神情であり神風である。それこそ神風に送られてのお国替えであると云う事を聞いて頂いて、今の死のうか生きろうかと云う人の例をとって、教えが無常の風を向こうへ押しやる程しの働きがあると云う事。
 また同時に私共が日頃信心の稽古をさせて頂く信心の焦点が、月を先に書く様な信心ではなくて、日を書いて月を書くという様な、本当な生き方本当な信心に焦点を置いてのおかげを頂いて行きますとそこに明るさが出て来る。大きさが生れて来る。そこに人が問題にする事が、全然問題でない程しのおかげになって来る。問題どころか御礼を申し上げねばならぬ程しの心の状態も開けて来るという事を聞いて頂いたですね。
   どうぞ。